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「僕は、あの人の匂いが好きだった。」
抱き合った時だけ感じる彼女の髪の毛の香り、隣で話している時に感じるオーデコロンの香り、ひどく落ち込んだ時にだけ吸うハッカの香りがするタバコの香り。どれ一つとして、嫌いなものはなかった。そして、何よりどの香りも彼女からしか感じることができなかった。
なのになぜ、こんなことになったのだろう。
今、隣にいるのはそんな心を落ち着かせてくれる彼女の匂いとは程遠い、まるで縄張りを争うかのような香水の香りをただ酔わせた女性だった。出逢って間もないこの女性は、人生に対してひどく落胆的で、彼女とは対照的な性格であった。どこまでも対象的なこの女性に逢う度に僕は彼女の思い出に浸らずにはいられなかった。
彼女の名前は、「村上 麻衣(むらかみ まい)」。
年は同じ年だが、とても大人らしく一緒にいると何故か安心するような不思議な雰囲気をまとっていた。それは、いままで出逢うことのなかった特別な存在であることを僕に教えてくれた。
そんな彼女と出逢ったのは4カ月前だった。
社会人になって二年目の春。
今まで春が始まるのを心待ちにしたことなどない僕は、例年通りに会社と家を行き来する日々を繰り返していた。しかし、僕を除く一般的な人たちは、春には多くの出会いを求め、恋を求め、高鳴る気持ちに心を躍らせていた。そんな世間の波に流されるように僕は会社の友達に誘われ食事会というなの飲み会にいくことになった。とはいえ、単なる人数合わせである。急な参加者の欠席により、4対4という条件を満たすために時間のあり余っている僕へお呼びがかかったのだ。そう、決して行きたがっていたわけではないことをココに明言しておく。
「待ち合わせは18時30分だっけ?!」
さっき聞いた時間を思い出すかのように山本に確認すると、声を発することなく首でうなずいてみせた。辺りは暗くなり、仕事帰りのサラリーマンや、OLが我先にと改札をくぐっていくのを横目に僕らは男4人で歩いていた。
花見の時期も過ぎ、ついうたた寝をしたくなるような日々が続いていたが、夜になるとまだ肌寒く、改札へ向かいすれ違う人たちの中には厚手のジャケットに身をまとった女性がには多く見受けられた。
「どうせ、彼女いないんだろ?!楽しめよ。」
既にヤル気のない僕に友達は、心ない一言をかけてきた。こいつの名前は、山本 孝(やまもと たかし)だ。
今日の男性陣の主催者であり、僕の会社での同期であり、こういった飲み会の大先輩である。特に嫌みなど込めていないのだろうが、山本の放つ言葉には相手を見下したようなニュアンスがよく見受けられる。それ故、会社でも若干の距離を置かれているのだが、その距離を大きな歩幅で簡単に乗り越えてくる度胸は、彼の大きな長所であった。
山本の言葉に苦笑いをして軽くうなずくと、僕は主催でもないのに几帳面にも印刷してきた目的地の地図に目を落とした。地図をみると、だいたいの場所は把握できていた。東京に出たばかりの頃は、地図を見ても入り乱れる網の目に悩まされてばかりだったし、地下鉄のダイヤが刻むリズムが速すぎて地上に向け出しては一息をついたいたのを思い出した。会場の近くに着くと少し時間が早く、コンビニで時間をつぶすことになった。他の連中が思うままに週刊雑誌を手に取り、自分の世界に入り込んでいく中、僕はコンビニの出口で一人携帯ワンセグでスポーツニュースに心を奪われていた。今日はサッカーの日本代表戦があり、そろそろ注目のスターティングメンバーの発表の時間にさしかかっていたのだ。中学のころから始めたサッカーは僕にとって唯一の趣味であった。そんな趣味にふけっていると一人の女性が大きな声をあげて趣味の時間に割り込んできた。イヤホンの隙間から入り込んできた甲高い笑い声は、徐々に近づいてきた。ついさっきまで、国立競技場の上空から東京を見下ろしていたのが、この声が近づく度にココがコンビニ前であることを思い出させた。
現実に帰り、顔をあげるとそこには3人の女性が歩道一杯に広がり歩いてきた。コンビニの前では子供を連れた親子達が歓談にふけっている。今目の前の狭い歩道には、10人近い大人たちと子供の笑い声が入り乱れ自分の道を譲り合っていた。端に立つ僕は、目の前の賑やかな光景と女性たちのめんどくさそうな表情に目を向けていた。一瞬立ち止まったが、結局それぞれが一列になり無難に道を分け合っていた。
彼女たちは僕の前を通り過ぎると、それぞれに携帯を取り出しさっきまでの笑い声をひそめ、私事の世界に入っていった。すると彼女たちの脇にはもう一人の女性が現れた。その女性は、僕の方から影になるように歩いていたらしく。すれ違う時ために一番後ろまでその順位を下げていたのだった。しかし、その表情はわからなかった。彼女はバッグの中に視線を落とし何かを探しているようだった。
最後を歩く彼女は、僕の前を通り過ぎる度に自らの存在感を現す香水をまとった女性たちとは対照的に、最後通り過ぎたとき彼女は僕を呼びよせるかのように、やさしい香りを残して通り過ぎていった。
”なんの香水だろう?”そんな疑問を自分に投げかけているうちにその女性たちは、近づいてきた時と同じように徐々に離れていった。気づくとまた話の続きが始まったらしく、しばらくの間、彼女たちの声に耳をすませながら、その背中を眺めていた。
イヤホンを通して国立からの歓声が高鳴り聞こえてきた。
手に持った画面では先ほどまで、静かにたたずんでいた上空からの映像が切り替わり選手紹介に移っていた。しかし、いま目で追っているのは青いユニフォームを着た選手ではなく緑に彩られたピッチでもなかった。
ちょっと遅れた分歩幅を大きめにとり、彼女たちの後を歩いている彼女を、いまでも思い出すことができる透明感のあるやさしい香りをまとった彼女を、気づくと目でおっていた。彼女の後ろ姿が遠ざかるにつれて薄れていく記憶が、先ほどの疑問を繰り返す度に僕は彼女の後姿とあの香りを結び付けてならなかった。
不意に訪れた、たった一瞬の出来事だった。
いま思うとこれが、初めての出会いだったのだが、僕は彼女の顔をまだ知らなかった。